2016年2月

2016年2月26日 (金)

2月20日(土)今回も沢山の方にご参加頂き、オリーブオイルテイスティングランチ講習会を行いました。

テーマはトスカーナ州のオリーブオイル。

2種類のテイスティングを試し、お食事との合わせ方を体験し、栄養価があるオリーブオイルの選び方や、お料理に合わせる事でより美味しくなる事がわかりました。

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【今回ご紹介したオリーブオイル】  


ANTICA SORGENTE/Olio Extra Vergine di Oliva
  アンティーカ・ソルジェンテ/エクストラバージンオリーブオイル

イタリア・トスカーナ州  品種: 60% Frantoio(フラントイオ)、20% Moraiolo、20% Leccino

  小売価格:2300円 お求めはinfo@lci-italia.comへどうぞ。

生産者:Duccio Morozzo 彼は国際的に活躍する公式鑑定士で、日本のオリーブ生産においてもコンサルタントをしている。

   



【今回のオリーブオイルに合わせたメニュー】

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 ひよこ豆のペースト、 パーネ・フラッタウ (サルデーニャ州伝統のパンPaneCarasauを使用)、 自家製バニラジェラート

同じ生産者のバルサミコ8年60%と3年未満のバルサミコ酢をブレンドした新商品Aceto Balsamico di Modena IGP バルサミコ酢は、コクとマイルドのバランスがよく、幅広くお料理に活用できます。

小売価格:3300円 お求めはinfo@lci-italia.comへどうぞ。

この講習に参加されたことにより、EXVオリーブオイルの選び方がわかるようになった。品種の違いやラベル表記に対する知識が増え、 商品ラベルを見るのが楽しくなったというコメントも。

是非皆さんも、正しくEXVオリーブオイルの知識を身に付けて、健康で美味しい生活をしてみませんか。

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次回は4月9日です。お楽しみに。

3月はサルデーニャ州郷土料理とワイン講座がございます。

郷土料理3品のほか、特別編として明治協賛の元牛乳でのチーズ作りも予定しております。

予約受付中ですので、皆様のご参加をお待ちしております。

詳細は、こちらへ 

LCI イタリアカルチャースタジオ

2016年2月23日 (火)

日程:2016年 9月23日(金)~10月1日(土)現地発2日(日)日本着 

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LCI 郷土料理研究家松山恭子とシチリア出身 Arianna先生がご案内。 

現地料金:  250,000円(税別)

シングルご希望の場合は 追加料金28,000円 

 

≪旅程(予定)≫  *多少の変更・追加点などご了承ください。

【9月23日(金)】21:25 カターニャ空港集合。近くのカターニャ市内に滞在。

【9月24日(土)】(午前)カターニャの町散策。 伝統シチリアの朝食Granitaや魚市場、劇場など。

(午後)エトナ山へ。中腹でランチ。ピスタチオの名産ブロンテ。生産現場見学。エトナのワインは今注目の的。素晴らしいブドウ畑を一望しながらテイスティング。アリアンナ先生のご実家でパーティ。その後、アグリツーリズモでゆっくり。Foto1

 【9月25日(日)】Randazzo活気ある市場へ。シチリア文化遺産PUPI(操り人形)博物館。Sulicchiata辺りのブドウ畑を巡り、伝統的なブドウ収穫祭りに参加。歴史的な衣装行進やお店が立ち並ぶ。葡萄搾り体験も?!

   

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【9月26日(月)】日伊文化交流体験(工芸品作りや民族舞踊?) ビオディナミで造るワイナリー見学。エオリア諸島リパリへ。島特有のドルチェワインや絶景の畑を見学、テイスティング。 温泉のある宿でゆっくり。

  

【9月27日(火)】エオリア諸島クルージング。Vulcano島で泥温泉で美肌に。夕食は島の魚屋直営レストランで。

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【9月28日(水)】タオルミーナへ出発。円形劇場から望むエトナ山、お洒落な街でショッピング、フリータイムを満喫。 アウトレットでイタリアならではの皮製品、衣類、バッグ、靴などショッピング。ノートへ。バロック建築の真っ白な神秘的な街を散策し、貴族の館でお休みください。

 

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【9月29日(木)】ヴィットリアの海外でも有名なった女子ワイン造り手Occhipinti 訪問、テイスティング。シチリアのある家庭でマンマのお料理講座。海前に建つモンタルバーノ刑事の家‐忘れ難い景色で記念撮影。モディカへ(チョコレート工房)。郷土料理を堪能。 ノートの貴族の館で就寝。

  

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【9月30日(金)】チーズ工房へ。オリーブオイルやトマトの生産地見学。シラクーサ、オルティッジャの町散策、お買い物。ノートで最後の晩餐を。

【10月1日(土)】カターニャ空港へ向かう。10:30チェックイン。帰途に着く。

(アリタリア航空の場合 ローマ経由、翌日2日(日)10:20着。)

  

【お問い合わせ・お申込み】LCI イタリアxカルチャースタジオ

Email: info@lci-italia.com Tel:  0422-24-8897 

 

2016年2月20日 (土)

日本発のWSAイタリアワインソムリエコース

原文はこちらのリンク。

http://www.bibenda.it/bibenda7/singolo-articolo.php?id=3102

11人の新しいメンバーが日のいづる国、日本に誕生!

イタリア時間2月14日(日)14:30、日本時間真夜中。 東京西方にある素敵な街吉祥寺で、もうすっかり慣れた日本人生徒の名前を読み上げました。Worldwide Sommelier Association のディプロマとFondazione Italiana Sommelierのタストヴァンをお渡しすると、皆さんきっちり、お辞儀をして、涙ぐむ方もいらっしゃいました。 日本人は普通控えめなのですが、この時は特別な思いに突き動かされたようでした。

日本で最初のFIS-WSAのイタリアワインソムリエコースがたった今終わったばかりですが、もう懐かしい想いです。私たち講師においても受講生においても、とても濃い凝縮されたコースで、1日9時間の時は吉祥寺とリストランテTre Scaliniでお食事との合わせを勉強する為に移動した日もございました。受講生の皆さんはとても真面目で、集中力があり、質問もいろいろとなさって励んでいらっしゃいました。

年代も経歴もさまざま(キャビンアテンダント、インポーターなど)、イタリア語を理解している方もいて、知らない方でもイタリア語に大変興味を持っていました。(例えば、ユーカリの香りはわからないけれど、白ワインに良く感じられる青りんごの香りは捉えていました。)

イタリア版の点数、評価表現、アッビナメントなどのシートを使いながら、ご本人の直観やひらめきを活用していたように思います。 試験では全員がSufficienza(十分)を超えており、何人かは素晴らしい点数を獲得する(ブラインドテイスティングテストで品種のサンジョヴェーゼまで分かっていた方も)など、コースの成果を発揮してくれました。

とりわけ、イタリアワインとフランスワインとの違いについて、特徴においてだけでなく、感覚分析表現においても、類似性がある点などを十分に理解したことでしょう。  これら11人のメンバーはテイスティングソムリエ、ワイン文化の学校FISに所属したと言っていいでしょう。 この事は私共にとって誇りであり、 簡単ではないが重要なマーケットである日本はイタリアワインを渇望し、興味を深く持っていることを確信した次第です。

一般的なボルドー、ブルゴーニュ、シャンパン以外に目を向けて、有名なラベルにとらわれない、イタリアワインの本質の世界を観たいのである。 長かったが情熱的なコースの中では、バローロ、バルバレスコ、ボルゲリ、エトナやヴァルテッリーナ、バジリカータ、ビオディナミのワインなど幅広いテイスティングの機会に恵まれた事で、皆さんの驚きや賛同に教室は毎回包まれて、和やかな雰囲気であった。

完璧なオーガナイズ(Kyoko Matsuyama) IVS日本イタリアワインソムリエの理事、LCI イタリアカルチャースタジオの代表。 イタリアに帰るのが少し寂しくもあり、受講生の皆さんの笑顔、お辞儀、また愛情豊かで、イタリアっぽく、握手など忘れる事ができません。この2016年2月に肥沃な土壌に種を巻きました。イタリアワイン文化の種を!しっかりと実る事でしょう。

Antonella Anselmo e Giuliano Lemme

2016年2月19日 (金)

2016年2月11日(木)~4日間集中コースとして、WSAイタリアワインソムリエコースを開講致しました。 

イタリアWSA(Worldwide Sommelier Association)認定シニア講師をお招きしたことで、より詳しい説明やまた広い知識と長年の経験より、あらゆる質問に的確に答えて頂き、短期とはいえ、本当に内容の深いコースを開くことが出来、ご参加頂いた方々、お手伝い頂いた方々、ワインの協賛頂きましたモンテ物産様に改めて感謝致しております。

また、講師陣や受講生の皆様からもご満足なさった嬉しいフィードバックを沢山頂戴しまして、このコースの必要性や有効性に確信を得ることが出来ましたので、今後に繋げて行きたいと考えております。

コースを修了され、試験に合格された方にはWSAよりイタリアワインソムリエCertificato(資格)とタストヴァンが授与され、11名の1期生が誕生致しました。Complimenti!

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BIBENDA 7 に記事が掲載されました。 (日本語はこちら

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講師陣:prof.Giuliano Lemme  e prof.ssa Antonella Anselmo

WSA-IVSJapanイタリアワインソムリエ第1期生の皆様。

(クリックすると拡大できます。)

 

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イタリアワインソムリエWSAおめでとうございます。


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早速次回コース参加希望の声も頂戴し、もちろん楽しい企画を続けて参ります。

ご案内をご希望の方はこちらへ、お名前とご連絡先をお知らせ下さい。

LCIイタリアカルチャースタジオ info@lci-italia.com TEL 0422-24-8897

2016年2月 9日 (火)

当校の生徒さんでもある清水真一さんは佐藤雪夫の甥に当たる。またジャーナリストの経験より、佐藤雪夫についての記事を書いて頂いた。

佐藤雪夫は、 東京外国語学校イタリア語科を卒業した翌年の一九二五年、シチリア生まれの作家ジョヴァンニ・ヴェルガの戯曲 「カヴァレリア・ルスティカーナ」の翻訳を単行本として出版した。

「カヴァレリア・ルスティカーナ」は、ヴェルガが一八八〇年に出版した短編小説集「田舎の生活」の中の一篇として発表された。ヴェルガはそれを自ら脚色して大女優エレオノーラ・ドウーゼを起用して八四年一月にトリノのカリニャーノ劇場で上演し、大成功を収めた。雪夫が翻訳・出版したのはこの戯曲だった。

物語は、兵役帰りの若者卜ウリッドと彼の元の許婚で、今や人妻になったローラとの間の成り行きと嫉妬するトウリッドの新しい恋人サントッツアの告げ口でトウリッドがローラの亭主アルフィオに決闘で殺される悲劇を描いている。

戯曲は、作曲家ピエトロ・マスカーニによって採り上げられ、オペラに仕立てられてローマのコスタンツイ劇場で上演され大成功を収めた。一八九〇年のことだった。今では「カヴァレリア・ルスティカーナ」といえば、原作者ヴェルガの小説や戯曲よりもマスカーニのオペラの方が有名である。

 

新劇運動

 

雪夫は一九一四年(大正三年)四月、東京神田の順天中学へ入った。このころから歌舞伎など芝居や映画に興味をもって勉強したという。この頃、二世市川左団次と小山内薫の自由劇場の設立発表(一九〇九年)や坪内逍遥による文芸協会の演劇研究所の設立(同年)などがあり、新劇運動が盛んになっていた。

そして一九二四年(大正一三年)には、小山内薫と土方与志によって築地小劇楊が誕生し、シェクスピアからオニールまで、英、仏、独、露、米、北欧など多くの外国劇が上映された。雪夫はこうした新劇運動の高まりに共嗚し、小山内薫の門下生になって専門のイタリア演劇の紹介に専念したものと推測される。雪夫の最初の著書が「カヴァレリア・ルスティカーナ」の戯曲だったというのもこうした背景があったものと推測される。

 

「南欧文学」創刊

 

佐藤雪夫は、一九二四年(大正三年)三月に東京外国語学校イタリア語科を卒業した。五年間在籍し、二十三歳だった。卒業して間もない二四年五月に地中海文学の研究と紹介を目的とした雑誌「南欧文学」(三田書房発行)を創刊し、編集を担当した。寄稿者には、フランス文学の鈴木信太郎、山内義雄、スペイン文学の笠井鎮夫、作家の石川淳、有島生馬らが名を連ねている。雪夫自身もイタリアの作家アンニエ・ヴィヴァンティ「運命」を翻訳寄稿するなど、早くも文学活動を始めている。

雪夫はこの年の十一月にキネマ旬報社に編集部員として入社した。本誌「キネマ旬報」に映画評などを書くとともに映画理論誌「映画往来」の編集も担当した。雪夫はこれと並行して専門のイタリア文学紹介や翻訳の仕事も精力的に行った。

雪夫は、翌二五年三月にシチリア生まれの作家ジョヴァンニ・ヴェルガの戯曲「カヴァレリア・ルスティカーナ」を翻訳、出版している。(ガブリエレ・ダンヌツィオの「紅の夕」を付録として付けている)。

 

「世界短編小説体系」

 

一九二六年になると、雪夫のイタリア文学紹介や翻訳は更に精力的に行われ、二月に発行された「劇と評論」三巻二号 (編集・発行:田中総一郎)にアントニオ・マッジョレ作の「太閤の控室」(未来派総合劇・一幕:佐藤雪夫訳)を寄稿したのをはじめ五月に発行された「世界短編小説大系」南欧及び北欧編(近代社)には「伊太利篇序」と翻訳十篇を寄稿している。この「世界短編小説大系」南欧及び北欧編には、「カヴァレリア・ルスティカーナ」の原作の小説をはじめ、ガブリエレ・ダンヌンツィオの小説「処女地」「お通夜」、ルイジ・ピランデルロの「夫の家出」などが収録されており、雪夫のほかに小山内薫、笠井鎮夫(スぺイン文学者)らが寄稿している。

 

世界戯曲全集

 

一九二八年(昭和三年)五月、近代社から世界戯曲全集第三十七巻伊太利篇「伊太利古典近代劇集」が出版された。雪夫はこれに「伊太利近代劇に就いて」と題した解説を寄稿し、ガブリエレ・ダンヌンツィオとジョヴァンニ・ヴェルガ、それにロベルト・ブラッコの三人をイタリア近代劇の三分野を代表する作家として紹介している。また、翻訳劇三篇、カルロ・ゴルドニの「宿屋の女将」、ピエトロ・メタスタッジオの「アッティリオ・レゴロ」それにジョヴァンニ・ヴェルガの「カヴァレリア・ルスティカーナ」を寄稿した。

この「伊太利古典近代劇集」には、有島生馬、小山内薫、森鴎外、高橋邦太郎、岩崎純孝らが寄稿者として名を連ねている。岩崎氏は雪夫と同じ一九〇一年生まれで、東京外国語学校イタリア語科を卒業しており、おそらく雪夫と同級生だったと推測される。

続いて一九二九年(昭和四年)七月には世界戯曲全集第三十八巻伊太利篇(二)「伊太利現代劇集」が出版されたが、雪夫はこれにルイジ・ピランデルロの戯曲「へンリ四世」とマリネッティの「バルドリア王」の翻訳を寄稿している。

そして、雪夫はこれにも「伊太利現代劇に就いて」という解説を書き、ジョヴァンニ・ヴェルガと同じシチリア生まれの劇作家でノーベル文学賞受賞者 (一九三四年)のピランデルロを紹介している。この「伊太利現代劇集」には、北村喜八、髙橋邦太郎、岩崎純孝らが翻訳寄稿者として名を連ねている。

 

トーキー映画の製作に参加

 

雪夫と小山内薫との親しい関係を物語るエピソードに日本最初のトーキー映画製作の試みがある。大正末期から昭和の初めにかけてハリウッドではトーキー映画製作の動きが盛んになってきた。こうした動きに注目した貿易商の皆川芳造は、日本でもトーキー映画を製作しようと製作機器を輪入して昭和キネマ株式会社を設立した。

雪夫はこの新しい映画の可能性に注目し、 昭和キネマの宣伝部長になった。 (鈴木伝明「私の生い立ち記」 日本映画年間第三年版)昭和キネマは東京市外大森町谷島にあった古い映画館を改造してトーキー映画製作スタジオにし、短編七編のほか昭和二年には日本初のトーキー劇映画「黎明」を製作した。

「黎明」は、原案を佐藤雪夫、脚色、監督を小山内薫、作曲を山田耕作が担当し、小山内薫の指揮下にあった築地小劇場座員を中心とする汐見洋、村瀬幸子、岸輝子、東山千栄子、山本安英、薄田研二らが出演した。昭和二年七月下旬、トーキー映画「黎明」の製作がはじまった。

しかしこの頃、雪夫はすでに病魔に襲われていた。八月早々に日本橋本舟町から辻堂の桜花園へ療養のため転地した。二十六歳になったばかりだった。

(佐藤雪夫「映画往来」昭和四年三月号)

この「黎明」製作の経緯について雪夫は「映画往来」(昭和四年三月号)のなかで「小さい経験」と題して次のように書いている。

「私たちがフォノフィルムの製作に当たる準備行動は、一九二七年の三月初めだったと思う。第一相互の屋上の東洋軒で皆川芳造氏、千葉凱夫氏、それに故小山内薫先生と私の四人が卓を囲んで第一回の準備会合を催した。そして、私と小山内先生が、映画劇の製作に主力を注ぐことになった。・・・・・

・・・・・私と先生は一時間余りも、あれか、これかと話し合ったが、結局得るところがなかった。

「どうもいいものがない。一つ君がストーリーを作ってくれないか。骨ができれば僕も手伝うから・・」という先生の意見で、私が作るか、探せねばならなくなった。

それから私は夜寝床の中で、アッティリオ・ロビネルリの短編小説を読んでみた。伊太利の女学生間に人気のある小説家である。そして見つけたのが「ヴィォリニスタ」(提琴家)である。これからヒントを得て、フォノフィルムのためのストーリーを、ああか、こうかと組み立てた。結局ラストの情景だけが「ヴィオリニスタ」に似ているだけで、他は全然私の創作になった。題名は「夜明け」とした。もちろん書いたのではない、頭の中で筋道を立てただけである。

それから二、三日して築地小劇場を訪れて先生に会った。「フン、そりゃ面白そうだ。それにしよう。コンストラクシォンだけ書いてくれないか。」これでストオリイは決定した。コンストラクシォンが出来るとそれをシナリオに書く木村一衛君の方へ廻した。 私が書くべきであったが、ある雑誌の編集をやったり、松竹蒲田撮影所にも多少関係していた私には、到底スタジオに詰めて、技術的な研究を実際にしている暇がなかったからである。・・・・・・・

すっかりシナリオが出来上がって「夜明け」は「黎明」と改題された。そして撮影にかかったのは七月下旬であった。その頃私は病魔に襲われ、八月早々湘南へ転地のやむなきに至った。したがって撮影を実地に研究することが出来なかったのは残念である。」(「映画往来」昭和四年三月号)

小山内薫も昭和二年八月号の「映画時代」に「映画黎明の製作について」という一文を書いて、その中で「黎明のストオリイは最初佐藤雪夫君が書きました。それは伊太利の或る短編小説からヒントを得たものでした。そのストオリイは、どちらかと言えば、あまり映画的なものではありませんでした。しかし、声並びに音を入れるフィルムの題材としては、ちょっと面白いものでした。」と紹介している。

日本初のトーキー映画「黎明」は、昭和二年十月十一日に帝国ホテルで試写した後、十月十四日から一週間、東京の邦楽座、東京館、日本館で封切られる予定だったが、発声不調のため公開は中止された。この昭和キネマ株式会社が採用したトーキー映画の発声技術は完全とはいえず、新しく開発された技術に追い越されていった。

 

ヴェルガと「カヴァレリァ・ルスティカーナ」

 

十九世紀後半、一八六〇年に統一伊太利国家が実現すると、南イタリアとシチリアではフランスの写実主義、 自然主義の影響を受けたヴェリズモ(現実主義・真実主義)というリアリズム文芸運動が起こった。その中心がジョヴァンニ・ヴェルガだった。

ジョヴァンニ・ヴェルガは、一八四〇年九月二日、シチリアのカターニャの裕福な一家の長男として生まれた。 十代から著作を始め、小説を相次いで出版した。青年時代に北イタリアのフィレンツェやミラノを訪れ、一八六九年にフィレンツェへ、七二年にミラノへ転居し、八〇年に短編小説集「田舎の生活」を出版する。その殆どがシチリアの田舎での出来事を題材にした作品で、その中の一篇が「カヴァレリア・ルスティカーナ」だった。

荒涼としたシチリアの自然の中で展開する貧しい人々の生と死のドラマを描いたこの作品は、ヴェルガ自身によって舞台化され、さらにピエトロ・マスカー二によってオペラ化されて世界的に有名になった。

 

マスカーニと「カヴァレリア・ルスティカーナ」

 

ヴェルガ自身が戯曲化した「カヴァレリア・ルスティカーナ」は、当時の大女優エレオノーラ・ドウーゼを主演として一八八四年一月、トリノで初演され、大成功を収めた。

そして、その後数年間イタリア各地で上演された。当時、ミラノの音楽学校の学生だったマスカーニは、 この戯曲版「カヴァレリア・ルスティカーナ」をミラノで見た。一八八八年七月、音楽出版社ソンツォニ社が、一幕物のオペラ・コンクールの第二回の募集を発表したので、低収入の音楽教師だった二十五歳のマスカーニは、これに応募することを決意し、「カヴァレリア 一 ルスティカーナ」を題材に選んだ。

作品は見事当選し、マスカーニの「カヴァレリア・ルスティカーナ」は、一八九〇年五月一七日ローマのコスタンツィ劇場で初演された。公演は大成功で、公演後、作曲者と演奏者は、六〇回ものカーテンコールを受け、マスカーニはたちまちオペラ界の籠児となった。第二夜からは入場券は完売となり、作品は十四回も再演されたという。

 

「カヴァレリア・ルスティカーナ」と日本

 

日本で「カヴァレリア・ルスティカーナ」が初めて上演されたのは、一九一七年一〇月のことだった。イタリアから招かれた振付師で演出家のジョヴァンニ・ヴィットリオ・ローシーによって原語のイタリア語で上演された。場所は、赤坂見附弁慶橋横にあったローシー一座の本拠、ローヤル館だった。

ロンドンで振付師として活躍していたローシーは、一九一二年(大正元年)創立されたばかりの帝国劇場に招かれて来日した。同劇場歌劇部のオペラ指導者に就任し、オッフェンバックの「天国と地獄」、プッチーニの「蝶々夫人」、それにモーツァルトの「魔笛」の日本初演を指導・演出した。

歌劇部が洋劇部と改称して一九一六年に解散したため、ローシーは歌劇部出身者を率いて赤坂見附にオペラ専門の小劇場「ローヤル館」を組織し、歌劇を上演した。

ローヤル館にはソプラノの原信子、バリトンの清水金太郎、ソプラノの安藤文子、テノールの田谷力三らが参加し、喜歌劇「天国と地獄」のほか「古城の鐘」、「ブン大将」、それに「セビリアの理髪師」、「カヴァレリア・ルスティカーナ」、「ラ・トラヴィアータ(椿姫)」が上演された。「カヴァレリア・ルスティカーナ」には、原信子、田谷力三らが出演し、言語のイタリア語で上演された。

しかし、ローヤル館は興行的に失敗し、一九一八年(大正七年)二月、ローシーはローヤル館を解散してアメリカヘ渡った。ローシー一座の最後の演目は「ラ・トラヴィアータ」で、主演は安藤文子、指渾は篠原正雄だった。

ローシーがアメリカ へ去った後、ローヤル館で活躍したオペラ歌手達は浅草へ移り、浅草オペラ全盛時代を築いた。

原信子は一座を旗揚げして観音劇場へ移った。参加者には、原信子(ソプラノ)、田谷力三(テノール)、堀田金星(テノール)、井上起久子(アルト)らがいた。

根岸歌副団の金龍館では「カルメン」、「アイーダ」、「パリアッチ」などが西欧人教師の指導なしで上演された。金龍館には、戸山英二郎((後の藤原義江)、高田雅夫(舞踏振付)が参加していた。しかし、この浅草興行界の盛況も一九二三年(大正一二年)九月一日の関東大震災で壊滅してしまった。

雪夫は一九一九年(大正八年)三月、順天中学を卒業し、四月に東京外国語学校のイタリア語科に入学しているので、映画、演劇に興味を持っていた彼のことだからこうした日本のオペラ界の動きを興味を持って見ていたものと思われる。

前記事:ルイ―ジ ピランデッロの魅力

多くの方がルイ―ジピランデッロの作品を翻訳している。

初期に翻訳したのは、佐藤雪夫であり、彼の作品『ヘンリー4世』と『夫の家出』は、今ではなかなか本屋では見付けられない。

佐藤雪夫は当時、新劇運動の高まりに共嗚し、小山内薫の門下生になって専門のイタリア演劇の紹介に専念したようである。ですから、雪夫の最初の著書が「カヴァレリア・ルスティカーナ」の戯曲であったのも頷ける。

佐藤雪夫の甥にあたる清水さんより、彼についての記事を書いて頂きましたので、是非ご一読ください。こちらへどうぞ

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ルイージ ピランデッロのセミナー開催!(イタリア語講師、日本語通訳あり)

お申込みはこちら。 info@lci-italia.com   Tel 0422-24-8897

詳細はこちらをクリック下さい。

LCI イタリアカルチャースタジオ   www.lci-italia.com

2016年2月 6日 (土)

来たる3月20日(日)に開催する文化セミナーで取り上げる題材は ノーベル賞作家『Luigi Pirandello』。 

1934年に劇作家となり、人間の多面性を利用した、独創的な手法で改革したことで称賛され、ノーベル賞受賞に至る。

Pirandello

1856年に生まれたフロイト(Sigmund Freud)は精神分析という治療法の創始者であり、「人間は自分の精神状態をコントロール出来ない故に、自分自身を知る事は不可能なのである。」

ヨーロッパでは、彼の考えに賛同し、哲学だけでなく、美術や文学界にも影響を及ぼしました。

Luigi Pirandelloは1967年にイタリアで生まれ、フロイトに影響を受けた一人であり、後にこのような理論を発表するのである。

「一人の人間の中には複数の人格がある。人生は舞台と同じく、人間は生きる為に仮面(MASCHERA)を身につけているのである。」

つまり、人は社会規則の中で存在し、本当の自由ではなく、社会に定められた役割を担っている。更に小さい社会である家族や会社のルールを守り生活している。よって場面によって役割が異なってくる。ピランデッロは、状況に合わせてmascheraを選んで身に付ける人生感を舞台で表している。。

3つのmascheraとは?

Maschere

-自分自身で見た自分maschera come il personaggio vede se stesso

-社会から見た自分  come gli altri vedono il personaggio

-自分が思う社会が見る自分        come il personaggio pensa che gli altri lo vedono

”ルイージ・ピランデッロの魅力 2” ~ピランデッロ文学、日本語翻訳者の佐藤雪夫氏~

日々会社や家庭の社会の中で生活をしている忙しい私たちにとって、とても自由でユニークな発想をもたらしたピランデッロについて、セミナー致します。

是非いらしてください。 お申込みはこちら。 info@lci-italia.com   Tel 0422-24-8897

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