2016年2月 9日 (火)

佐藤雪夫とカヴァレリア・ルスティカーナ

当校の生徒さんでもある清水真一さんは佐藤雪夫の甥に当たる。またジャーナリストの経験より、佐藤雪夫についての記事を書いて頂いた。

佐藤雪夫は、 東京外国語学校イタリア語科を卒業した翌年の一九二五年、シチリア生まれの作家ジョヴァンニ・ヴェルガの戯曲 「カヴァレリア・ルスティカーナ」の翻訳を単行本として出版した。

「カヴァレリア・ルスティカーナ」は、ヴェルガが一八八〇年に出版した短編小説集「田舎の生活」の中の一篇として発表された。ヴェルガはそれを自ら脚色して大女優エレオノーラ・ドウーゼを起用して八四年一月にトリノのカリニャーノ劇場で上演し、大成功を収めた。雪夫が翻訳・出版したのはこの戯曲だった。

物語は、兵役帰りの若者卜ウリッドと彼の元の許婚で、今や人妻になったローラとの間の成り行きと嫉妬するトウリッドの新しい恋人サントッツアの告げ口でトウリッドがローラの亭主アルフィオに決闘で殺される悲劇を描いている。

戯曲は、作曲家ピエトロ・マスカーニによって採り上げられ、オペラに仕立てられてローマのコスタンツイ劇場で上演され大成功を収めた。一八九〇年のことだった。今では「カヴァレリア・ルスティカーナ」といえば、原作者ヴェルガの小説や戯曲よりもマスカーニのオペラの方が有名である。

 

新劇運動

 

雪夫は一九一四年(大正三年)四月、東京神田の順天中学へ入った。このころから歌舞伎など芝居や映画に興味をもって勉強したという。この頃、二世市川左団次と小山内薫の自由劇場の設立発表(一九〇九年)や坪内逍遥による文芸協会の演劇研究所の設立(同年)などがあり、新劇運動が盛んになっていた。

そして一九二四年(大正一三年)には、小山内薫と土方与志によって築地小劇楊が誕生し、シェクスピアからオニールまで、英、仏、独、露、米、北欧など多くの外国劇が上映された。雪夫はこうした新劇運動の高まりに共嗚し、小山内薫の門下生になって専門のイタリア演劇の紹介に専念したものと推測される。雪夫の最初の著書が「カヴァレリア・ルスティカーナ」の戯曲だったというのもこうした背景があったものと推測される。

 

「南欧文学」創刊

 

佐藤雪夫は、一九二四年(大正三年)三月に東京外国語学校イタリア語科を卒業した。五年間在籍し、二十三歳だった。卒業して間もない二四年五月に地中海文学の研究と紹介を目的とした雑誌「南欧文学」(三田書房発行)を創刊し、編集を担当した。寄稿者には、フランス文学の鈴木信太郎、山内義雄、スペイン文学の笠井鎮夫、作家の石川淳、有島生馬らが名を連ねている。雪夫自身もイタリアの作家アンニエ・ヴィヴァンティ「運命」を翻訳寄稿するなど、早くも文学活動を始めている。

雪夫はこの年の十一月にキネマ旬報社に編集部員として入社した。本誌「キネマ旬報」に映画評などを書くとともに映画理論誌「映画往来」の編集も担当した。雪夫はこれと並行して専門のイタリア文学紹介や翻訳の仕事も精力的に行った。

雪夫は、翌二五年三月にシチリア生まれの作家ジョヴァンニ・ヴェルガの戯曲「カヴァレリア・ルスティカーナ」を翻訳、出版している。(ガブリエレ・ダンヌツィオの「紅の夕」を付録として付けている)。

 

「世界短編小説体系」

 

一九二六年になると、雪夫のイタリア文学紹介や翻訳は更に精力的に行われ、二月に発行された「劇と評論」三巻二号 (編集・発行:田中総一郎)にアントニオ・マッジョレ作の「太閤の控室」(未来派総合劇・一幕:佐藤雪夫訳)を寄稿したのをはじめ五月に発行された「世界短編小説大系」南欧及び北欧編(近代社)には「伊太利篇序」と翻訳十篇を寄稿している。この「世界短編小説大系」南欧及び北欧編には、「カヴァレリア・ルスティカーナ」の原作の小説をはじめ、ガブリエレ・ダンヌンツィオの小説「処女地」「お通夜」、ルイジ・ピランデルロの「夫の家出」などが収録されており、雪夫のほかに小山内薫、笠井鎮夫(スぺイン文学者)らが寄稿している。

 

世界戯曲全集

 

一九二八年(昭和三年)五月、近代社から世界戯曲全集第三十七巻伊太利篇「伊太利古典近代劇集」が出版された。雪夫はこれに「伊太利近代劇に就いて」と題した解説を寄稿し、ガブリエレ・ダンヌンツィオとジョヴァンニ・ヴェルガ、それにロベルト・ブラッコの三人をイタリア近代劇の三分野を代表する作家として紹介している。また、翻訳劇三篇、カルロ・ゴルドニの「宿屋の女将」、ピエトロ・メタスタッジオの「アッティリオ・レゴロ」それにジョヴァンニ・ヴェルガの「カヴァレリア・ルスティカーナ」を寄稿した。

この「伊太利古典近代劇集」には、有島生馬、小山内薫、森鴎外、高橋邦太郎、岩崎純孝らが寄稿者として名を連ねている。岩崎氏は雪夫と同じ一九〇一年生まれで、東京外国語学校イタリア語科を卒業しており、おそらく雪夫と同級生だったと推測される。

続いて一九二九年(昭和四年)七月には世界戯曲全集第三十八巻伊太利篇(二)「伊太利現代劇集」が出版されたが、雪夫はこれにルイジ・ピランデルロの戯曲「へンリ四世」とマリネッティの「バルドリア王」の翻訳を寄稿している。

そして、雪夫はこれにも「伊太利現代劇に就いて」という解説を書き、ジョヴァンニ・ヴェルガと同じシチリア生まれの劇作家でノーベル文学賞受賞者 (一九三四年)のピランデルロを紹介している。この「伊太利現代劇集」には、北村喜八、髙橋邦太郎、岩崎純孝らが翻訳寄稿者として名を連ねている。

 

トーキー映画の製作に参加

 

雪夫と小山内薫との親しい関係を物語るエピソードに日本最初のトーキー映画製作の試みがある。大正末期から昭和の初めにかけてハリウッドではトーキー映画製作の動きが盛んになってきた。こうした動きに注目した貿易商の皆川芳造は、日本でもトーキー映画を製作しようと製作機器を輪入して昭和キネマ株式会社を設立した。

雪夫はこの新しい映画の可能性に注目し、 昭和キネマの宣伝部長になった。 (鈴木伝明「私の生い立ち記」 日本映画年間第三年版)昭和キネマは東京市外大森町谷島にあった古い映画館を改造してトーキー映画製作スタジオにし、短編七編のほか昭和二年には日本初のトーキー劇映画「黎明」を製作した。

「黎明」は、原案を佐藤雪夫、脚色、監督を小山内薫、作曲を山田耕作が担当し、小山内薫の指揮下にあった築地小劇場座員を中心とする汐見洋、村瀬幸子、岸輝子、東山千栄子、山本安英、薄田研二らが出演した。昭和二年七月下旬、トーキー映画「黎明」の製作がはじまった。

しかしこの頃、雪夫はすでに病魔に襲われていた。八月早々に日本橋本舟町から辻堂の桜花園へ療養のため転地した。二十六歳になったばかりだった。

(佐藤雪夫「映画往来」昭和四年三月号)

この「黎明」製作の経緯について雪夫は「映画往来」(昭和四年三月号)のなかで「小さい経験」と題して次のように書いている。

「私たちがフォノフィルムの製作に当たる準備行動は、一九二七年の三月初めだったと思う。第一相互の屋上の東洋軒で皆川芳造氏、千葉凱夫氏、それに故小山内薫先生と私の四人が卓を囲んで第一回の準備会合を催した。そして、私と小山内先生が、映画劇の製作に主力を注ぐことになった。・・・・・

・・・・・私と先生は一時間余りも、あれか、これかと話し合ったが、結局得るところがなかった。

「どうもいいものがない。一つ君がストーリーを作ってくれないか。骨ができれば僕も手伝うから・・」という先生の意見で、私が作るか、探せねばならなくなった。

それから私は夜寝床の中で、アッティリオ・ロビネルリの短編小説を読んでみた。伊太利の女学生間に人気のある小説家である。そして見つけたのが「ヴィォリニスタ」(提琴家)である。これからヒントを得て、フォノフィルムのためのストーリーを、ああか、こうかと組み立てた。結局ラストの情景だけが「ヴィオリニスタ」に似ているだけで、他は全然私の創作になった。題名は「夜明け」とした。もちろん書いたのではない、頭の中で筋道を立てただけである。

それから二、三日して築地小劇場を訪れて先生に会った。「フン、そりゃ面白そうだ。それにしよう。コンストラクシォンだけ書いてくれないか。」これでストオリイは決定した。コンストラクシォンが出来るとそれをシナリオに書く木村一衛君の方へ廻した。 私が書くべきであったが、ある雑誌の編集をやったり、松竹蒲田撮影所にも多少関係していた私には、到底スタジオに詰めて、技術的な研究を実際にしている暇がなかったからである。・・・・・・・

すっかりシナリオが出来上がって「夜明け」は「黎明」と改題された。そして撮影にかかったのは七月下旬であった。その頃私は病魔に襲われ、八月早々湘南へ転地のやむなきに至った。したがって撮影を実地に研究することが出来なかったのは残念である。」(「映画往来」昭和四年三月号)

小山内薫も昭和二年八月号の「映画時代」に「映画黎明の製作について」という一文を書いて、その中で「黎明のストオリイは最初佐藤雪夫君が書きました。それは伊太利の或る短編小説からヒントを得たものでした。そのストオリイは、どちらかと言えば、あまり映画的なものではありませんでした。しかし、声並びに音を入れるフィルムの題材としては、ちょっと面白いものでした。」と紹介している。

日本初のトーキー映画「黎明」は、昭和二年十月十一日に帝国ホテルで試写した後、十月十四日から一週間、東京の邦楽座、東京館、日本館で封切られる予定だったが、発声不調のため公開は中止された。この昭和キネマ株式会社が採用したトーキー映画の発声技術は完全とはいえず、新しく開発された技術に追い越されていった。

 

ヴェルガと「カヴァレリァ・ルスティカーナ」

 

十九世紀後半、一八六〇年に統一伊太利国家が実現すると、南イタリアとシチリアではフランスの写実主義、 自然主義の影響を受けたヴェリズモ(現実主義・真実主義)というリアリズム文芸運動が起こった。その中心がジョヴァンニ・ヴェルガだった。

ジョヴァンニ・ヴェルガは、一八四〇年九月二日、シチリアのカターニャの裕福な一家の長男として生まれた。 十代から著作を始め、小説を相次いで出版した。青年時代に北イタリアのフィレンツェやミラノを訪れ、一八六九年にフィレンツェへ、七二年にミラノへ転居し、八〇年に短編小説集「田舎の生活」を出版する。その殆どがシチリアの田舎での出来事を題材にした作品で、その中の一篇が「カヴァレリア・ルスティカーナ」だった。

荒涼としたシチリアの自然の中で展開する貧しい人々の生と死のドラマを描いたこの作品は、ヴェルガ自身によって舞台化され、さらにピエトロ・マスカー二によってオペラ化されて世界的に有名になった。

 

マスカーニと「カヴァレリア・ルスティカーナ」

 

ヴェルガ自身が戯曲化した「カヴァレリア・ルスティカーナ」は、当時の大女優エレオノーラ・ドウーゼを主演として一八八四年一月、トリノで初演され、大成功を収めた。

そして、その後数年間イタリア各地で上演された。当時、ミラノの音楽学校の学生だったマスカーニは、 この戯曲版「カヴァレリア・ルスティカーナ」をミラノで見た。一八八八年七月、音楽出版社ソンツォニ社が、一幕物のオペラ・コンクールの第二回の募集を発表したので、低収入の音楽教師だった二十五歳のマスカーニは、これに応募することを決意し、「カヴァレリア 一 ルスティカーナ」を題材に選んだ。

作品は見事当選し、マスカーニの「カヴァレリア・ルスティカーナ」は、一八九〇年五月一七日ローマのコスタンツィ劇場で初演された。公演は大成功で、公演後、作曲者と演奏者は、六〇回ものカーテンコールを受け、マスカーニはたちまちオペラ界の籠児となった。第二夜からは入場券は完売となり、作品は十四回も再演されたという。

 

「カヴァレリア・ルスティカーナ」と日本

 

日本で「カヴァレリア・ルスティカーナ」が初めて上演されたのは、一九一七年一〇月のことだった。イタリアから招かれた振付師で演出家のジョヴァンニ・ヴィットリオ・ローシーによって原語のイタリア語で上演された。場所は、赤坂見附弁慶橋横にあったローシー一座の本拠、ローヤル館だった。

ロンドンで振付師として活躍していたローシーは、一九一二年(大正元年)創立されたばかりの帝国劇場に招かれて来日した。同劇場歌劇部のオペラ指導者に就任し、オッフェンバックの「天国と地獄」、プッチーニの「蝶々夫人」、それにモーツァルトの「魔笛」の日本初演を指導・演出した。

歌劇部が洋劇部と改称して一九一六年に解散したため、ローシーは歌劇部出身者を率いて赤坂見附にオペラ専門の小劇場「ローヤル館」を組織し、歌劇を上演した。

ローヤル館にはソプラノの原信子、バリトンの清水金太郎、ソプラノの安藤文子、テノールの田谷力三らが参加し、喜歌劇「天国と地獄」のほか「古城の鐘」、「ブン大将」、それに「セビリアの理髪師」、「カヴァレリア・ルスティカーナ」、「ラ・トラヴィアータ(椿姫)」が上演された。「カヴァレリア・ルスティカーナ」には、原信子、田谷力三らが出演し、言語のイタリア語で上演された。

しかし、ローヤル館は興行的に失敗し、一九一八年(大正七年)二月、ローシーはローヤル館を解散してアメリカヘ渡った。ローシー一座の最後の演目は「ラ・トラヴィアータ」で、主演は安藤文子、指渾は篠原正雄だった。

ローシーがアメリカ へ去った後、ローヤル館で活躍したオペラ歌手達は浅草へ移り、浅草オペラ全盛時代を築いた。

原信子は一座を旗揚げして観音劇場へ移った。参加者には、原信子(ソプラノ)、田谷力三(テノール)、堀田金星(テノール)、井上起久子(アルト)らがいた。

根岸歌副団の金龍館では「カルメン」、「アイーダ」、「パリアッチ」などが西欧人教師の指導なしで上演された。金龍館には、戸山英二郎((後の藤原義江)、高田雅夫(舞踏振付)が参加していた。しかし、この浅草興行界の盛況も一九二三年(大正一二年)九月一日の関東大震災で壊滅してしまった。

雪夫は一九一九年(大正八年)三月、順天中学を卒業し、四月に東京外国語学校のイタリア語科に入学しているので、映画、演劇に興味を持っていた彼のことだからこうした日本のオペラ界の動きを興味を持って見ていたものと思われる。

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