PITIGLIANO
ピティリアーノは凝灰岩の切り立った崖の上に立つ村で、この一帯は火山の噴火によって灰が堆積してできた土地です。
オルヴィエートやマンチャーノ、ソラーノも凝灰岩の町と言われています。巨大なカルデラ湖として有名なボルセーナ湖からも近いです。
人口わずか4000人のピティリアーノの町の歴史はエトルリア時代までさかのぼり、実際、町の周辺には凝灰岩を掘って作られた当時の墓地、洞窟がたくさん残っていて、現在ではワイン貯蔵庫や家畜小屋などに利用されています。町の中の家々の下には、2000年前の骨壺を納めるための小さなトンネルのある穴倉が残り、利用されています。
acquedotto mediceo 水道橋
15世紀半ばに近くの渓流から町に水を運ぶためメディチ家によって作られた。
900年以降の中世の時代では、ピティリアーノ周辺はロンゴバルド人に支配され、その後1312年からは
ローマ有力貴族であるオルシーニ家、1604年からはメディチ家の支配下
15世紀に建設されたたオルシーニ宮殿(Palazzo Orsini)
オルシーニ家はローマの有力貴族で、メディチ家には何人か娘が嫁いでいる、ローマ教皇も排出している。ちなみに「怪物庭園」として知られているボマルツォの庭園を作ったのもオルシーニ家の人です。
ちなみにオルシーニはイタリア語で小熊という意味で、町の中には、熊の姿をした像や紋章を見つけることができます。
市場の跡地には、壁に計量するための測りが残っています。
いろんな民族や村人が、市場へやってくると、それぞれの計量(測量)方法が異なったそうで、
簡単に換算できるように、作られたものです。
【ゲットー Ghetto 】ユダヤ人のコミュニティー
【シナゴーガ Sinagoga】ユダヤ教のシナゴーグ
16世紀に教皇領から追放されたユダヤ人たちが、ピティリアーノに逃れてきました。1799年、トスカーナはナポレオン軍によって2度占領されます。 多くのトスカーナの町で、ユダヤ人コミュニティが襲撃に合う中で、ピティリアーノだけが、ユダヤ人とイタリア人住民が助け合ってコミュニティーを守り抜きました。
19世紀に入るとイタリアにおけるユダヤ人の地位は確保されるのですが、1850年ピティリアーノのユダヤ人の割合は20%近くまで増えました。しかし、1963年にはユダヤ人排斥運動が起こります。 ナチスの息のかかった役人が来て仕事を与えるからと上手く呼び出したのです。
若者はそんな仕事はしたくないと、町住人の逃がす助けを得て、他国へ出たといいます。しかし、年寄りは年なので仕事などさせられないと高を括り、逃げなかったため収容されてしまったのです。やはり僻地のピティリアーノには、情報が入ってくるのは遅かったようです。
現在、その時に生き残ったユダヤ人1人残っており、その方の語りべで実態を知る事が出来たのです。シナゴーグ(ユダヤ教の教会)やイベントは彼女が大切に守っています。
【ピティリアーノの郷土菓子 SFRATTO】
ユダヤ伝統のクルミとハチミツをベースにした棒状の郷土菓子。メディチ家コジモ2世大公が、17世紀頃、SovanaやSoranoなど一帯のユダヤ人をピティリアーノのゲットーへ追いやるべく、各家のドアを杖のような棒で叩いて、呼び出したのです。 この酷い行為を忘れない為に、後に杖を思い出すようなこの形のお菓子が生まれました。また、スフラットは立ち退きを意味します。
町のカフェでティザーナ(温かいハーブティ)と一緒にスフラットを頂きました。中身の詰まったお菓子はエネルギー回復にぴったり、ほっこり温まりました、
【Bianco di Pitigliano】DOC 白ワイン
優しい香りにドライな風味を特徴とするピティリアーノDOCのワインは原産地呼称DOC Bianco di Pitiglianoに指定されてから50年以上が経ちます。 1966年に指定されました。
生産地域は Pitigliano, Sorano, Manciano, Capalbio 、Scansanoと広がります。
2016年には50周年記念をオルシーニ城で催されました。