エトルリア人のネクロポリス Sorano-Sovana-Pitigliano

紀元前の先住民エトルリア人を起源とする『Città del tufo/凝灰岩の町』
ピティリアーノ、ソラーノ、ソヴァーナという3つの村で三角形を成すように位置します。

エトルリア人の遺跡があることで有名です。 

今回はソヴァーナのエトルリア時代のネクロポリスとピティリアーノをガイド付きで歩きましょう。

「凝灰岩の町」考古学公園  "Parco Archeologico Città del Tufo" di Sovana

大きく分けて3つのエリア:ソヴァーナのネクロポリス(共同墓地)、ソラーノの要塞とサン・ロッコ展望台、ヴィトッツァの洞窟居住区

【ソヴァーナのネクロポリ】

 エトルリア時代のお墓や Vie Cava (凝灰岩を切り崩してできた通路)

Tomba

①象徴的な「イルデブランダの墓」la Tomba Ildebranda(3世紀)。1924年に発見され、ソヴァーナ輩出の教皇・グレゴリオ世の本名が付けられた。

②「羽の生えた悪魔の墓」la Tomba dei Demoni Alatii、「獅子の墓」Tomba dei Leoniなどがあります。      

その他、「人魚の墓」 エトルリア時代にポピュラーだったスキュラ Scilla(海の怪物に姿を変えられたニンフ)が、当時は人魚のように描かれることが多かったようです。

【Vie Cave ヴィ―エ・カーヴェ】(tagliateとも呼ぶ)  天井のない、切り開かれた洞窟                                         雨水を運ぶ水路としてや、隣村との通路だけでなく、敵から守る戦略的なものと考えられる。                                        エトルリア時代に人の手で10mもの深い道を掘り進めたことを想像すると圧巻である。

Viecave_2

Il Cavone  イル・カヴォーネ:所々にエトルリア時代に書かれた文字・記号のようなものがあります!

Via Cava di Poggio Prisca   ヴィア・カーヴァ ディ ポッジョ プリスカ

【ソヴァーナの歴史】

旧石器時代後期(約2万年前)からソヴァーナには人類の存在が見られ、更に、銅時代、青銅時代にもある民族住んでいたと遺跡から立証されています。紀元前8世紀頃から凝灰岩のソヴァーナだけでなく、近隣のピティリアーノ、ポッジョ・ブーコなども占拠し, この頃に、墓のの様式に変化が起こり、火葬から土葬へと、場所も岩壁から部屋タイプへと変わったそうです。

ソヴァーナのネクロポリスでは紀元前7世紀初頭から、こういった墓の変化や、陶器にも絵や模様が描かれるようになった。 エトルリア時代、ソヴァーナは常に中心地であり、特に紀元前6世紀にヴルチに対抗する側に力を貸して、更に発展した。(墓のフレスコより)

紀元前3世紀終り、ヴルチの土地のローマに影響されることなく、紀元前1世紀頃までソヴァーナは中心地であり続けました。エトルリアーローマ時代については墓などの遺跡によって立証されています。

【エトルリア人 Etruschi の紹介】

前8~6世紀、イタリア中部を支配した系統不明の民族。鉄器を使用し、独自の文化を発達させ、一時ローマも支配した。前3世紀にはローマに敗れ、イタリアに吸収された。 イタリア半島の先住民族の一つとされている。

ギリシア人との交易
 戦後になって考古学調査が進められた結果、前9世紀ごろ、イタリア中部のエトルリア地方で鉄器文化が始まった(ヴィッラノーヴァ文化)ことが明らかになってきた。この鉄器の原料は、対岸の地中海上のエルバ島で産出したものであった。前8世紀ごろには鉄以外に銅、銀、錫などの金属器が使用され高度な加工技術が発達した。このころからギリシア人が交易のためにエトルリアを訪れるようになり、彼らはイタリア半島南部にネアポリス(現在のナポリ)などの植民市を築いていった。ギリシア人はエトルスキ人からギリシアでは産出しない青銅の原料の錫を手にいれるなど、盛んに交易をおこなったが、それとともにギリシアから麦やオリーブ・葡萄などの農作物栽培技術が伝えられた。

ローマ王政
 エトルリア人は前7世紀末ごろからイタリア中部の現在のトスカーナ地方に12の都市国家を建設し、前6世紀まで繁栄したが、統一国家をつくることはなかった。しかし、その勢力を次第に南北に広げてゆき、南はカンパニア地方、北はポー川流域まで。
 前616年にはエトルリア人のタルクィニウスがテベル川河畔の都市国家ローマに移住して王に選ばれ、王政を行った。その支配は一時ほぼイタリア半島中部全土に及んだ。しかし、ローマでは前6世紀の終わりにエトルリア人の王が追放されて前509年に貴族共和政が成立し、エトルリアはローマとの戦いに敗れて次第に衰退した。

エトルリア文明

彼らはギリシア文字を用い、遺跡からも史料が多数見つかったが、それはギリシア文字の音だけを借りて彼らの言葉を書き記したもので、その言語はインドヨーロッパ語系ではないらしく、意味は分からなかった。こうして考古学的な資料はたくさんあるのに、どこから来て、どんな社会を作っていたのかが判らないために、「謎の文明」と言われたのだった。

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エトルリアの壺

ヴルチ出土のボクシングの場面を描くアンフォラ(ぶどう酒入れ) 現在判ってきたことは、「エトルリアの壺」と言われる多数の壺は、どうやらギリシアからの輸入品であったらく、ギリシア文字の使用とともにギリシア文化の強い影響を受けていることである。なお、ローマの北方にあるタルクィニアの町にはエトルリア時代の貴族の墳墓の地下墓室が多数残されており、楽しく歌舞音曲を楽しむ姿とともに、恐ろしい冥界と思われる絵などが残されている。彼らはまた、鳥占いや肝臓占いなどを行っていたが、これはアジアに源流があると考えられている。
使用した言語は、長く不明とされていたが、ギリシア文字と同系列であることが判り、現在ではほぼ解読がされている。本質的にはギリシアのアルファベットで書かれていることで、イタリア半島中部のギリシア植民市キュメから伝わったと考えられている。残されたエトルリア語碑文のアルファベットは、右から左へと読むように書かれ、Oを用いず、UがOを兼ね、また有声子音b、d、gもないなどの特徴がある。